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⑩注連石(右)日下伯巌伝書「う禮し具毛松の梢尓立寄天久しく爰に民を守ら舞」⑨記念石表:「式内名神両社千年祭之碑」⑪注連石(左)日下伯巌伝書「千早振神の五十鈴の加わら須も免くる月日能影のさやけさ」360×40×30(㎝)嘉永7年8月伯巌69歳の作230×29×21(㎝)明治31年8月78歳の作記念石裏:「明治三十一年八月」されたことは、平安の御代から大変名誉なことだったことであろう。(今に「式内社または式内名神」と尊称される由縁)それから千年、明治を生きた当時の人々は「千年祭」を祝い、さらにこれを後世に伝えんと記念碑建立を発起した。僧明月、僧懶翁とともに「伊予の三筆」として名声の高かった米山に、雄渾な筆を振るってもらうことにしたのであろう。酒豪で知られ、無心の境地で筆を握る米山らしい楷書で豪放磊落な書風が窺われる。ちなみに江戸中期の「松山藩の三筆」は、蔵山、明月、伊藤子礼である。また拝殿内部には、今治藩御用絵師であった山本雲渓作の絵馬「虎退治の図」と、画題不明だが文久二年の絵馬一対が奉納されている。この米山の師匠ともいうべき存在が、伊予松山藩第十一代藩主松平定通(老中として「寛政の改革」を行った陸奥白河藩第三代藩主松平定信は叔父)に仕え、藩校「明教館」(現県立松山東高等学校の敷地の一画に移築)の開設に尽力、初代教授として長らく藩士の子弟教育に心血を注いだ日下伯巌(一七八五?一八六六)である。太鼓橋前に屹立する豪奢な稚児柱付き親柱方式の注連石左右には、米山とは、誠に対照的な伯巌伝書とされる優美華麗な草書体の和歌二首が彫られている。ともに風早宮大氏神の「国安かれ、民安かれ」と遍く拡がる「一願成就」の御神徳を長しえに称え、御社頭のますます高からんことを願う畏敬の念が込められている。南側:【原文】う禮し具毛松の梢禾立寄天久しく爰に民を守ら舞【訓読】うれしくも松の梢に立寄りて久しくここに民を守らむ【大意】老松が覆い尽くすこの國津の杜を訪れ、大神に参拝できたこのうれしさよ。伊予国随一の大社であるこの社の神様は、太古の昔から風早の里の人々を守ってこられたのであろうなあ。【裏面】八月吉日建立北側:【原文】千早振神の五十鈴の加わら須も免くる月日能影のさやけさ【訓読】千早振神の五十鈴のかわらずもめぐる月日の影のさやけさ【大意】物部の神らしく荒々しい神成を発動されるこの社の大神の前を流れる五十鈴川の流れは、尽きることがない。煌々たる満月を仰ぎ、この明るさは人間の命を超えたものかと気付かされる。月日は移ろい時代は変わろうとも、月は照り続けるであろう。永遠の神徳に感動しきりである。【裏面】嘉永七甲寅年めいらのううかがきつりつごうしゃげつまつだいらさだみちむつめいきょうかんまつだいらさだのぶくさかはくがんゆうこんいちがんじょうじゅあまねとここずえもりはちがつきちじつこんりゅうちはやぶるかえいしちこういんのとしつきひこうこうたちよ⑪⑩⑨