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この神社にある米山の石碑は寄附石である。石段を登ったところ、神門の手前、向かって左にある。寄附者は西園寺公望公。それを顕彰する寄附石の文字を、三輪田米山に揮毫してもらった。「一金五拾円」となっているが、西園寺公に五十円もらったのではない。これについては、高縄神社が県社に昇格したことにまつわる秘話(社司の苦悩)が伝えられている。明治御一新に伴う一郷一社の定則により高縄神社は郷社に列格し、明治二十八年には県社に昇格した。この年の髙縄神社春季大祭(四月二十四日)は、県社昇格奉祝大祭として斎行。当時の人口は今よりもずっと少なかった筈なのに、境内は「立錐の余地無き」有様だったと、社司の玉井安盛が手記に書いている。その玉井安盛と三輪田米山は、神職と教導職とを兼ねていた。その年(明治二十八年)米山七十五歳で安盛は五十三歳。教導職の級位は米山が少教正で安盛は中講義であった。教導職は、大教宣布(明治三年の詔による)を推進するため明治五年、太政官布告により教部省の管轄下で当時の神職や僧侶などから選び補任された。しかし、神道と仏教とで対立し、さらに神道十三派が分派独立。神道本局(後に神道大教と改称)の教導職も明治十五年には、神官との兼補廃止ということになった。神官とは神職の呼称のひとつだが、この頃には官社(官幣社・國幣社)の神職を意味するようになっていた。その点、三輪田米山や玉井安盛は諸社(県社・郷社・村社・無格社)の神職であったため、教導職の兼務を続けることが出来たのである。明治二十八年七月五日に、三輪田米山は教導職として当神社の昇格を祝し『懸社髙縄神社』と揮毫した。落款は、「少教正大神常貞書」となっている。揮毫の日は『米山日記』でわかる。(米山日記は後に三輪田家を継いだ人らが売却して散逸したのを浅海蘇山先生が蒐集なさり、昭和四十四年八月三十日に発行の大著『米山│人と書│』に収録掲載)その大著四一六ページに、このことが出ている。ところが、神名石(高縄神社の鳥居もとにある)には、その米山の書ではなく西園寺公の書が刻まれた。表に「明治二十九年八月四日於東京」とあるのに、裏面には大きく「明治二十八年五月立之/氏子中」と書かれている。側面には、社司(現宮司の曽祖父)に続いて社掌が三人、計四人が神職として名を連ね(当時は社家が四軒あった)、それに氏子総代と石工の名前が記されている。昇格を祝し三輪田米山が『懸社髙縄神社』と揮毫してくれた。なのに神名石の文字は、西園寺公に書いてもらった。その謝礼を受け取られなかったから寄附を戴いたことにして、また米山に、こんどは寄附石の文字を書いてもらったというのである。松山市宮内(国史見在社・旧県社)『日本三代実録』に「貞観五年九月二五日甲寅援伊予国正六位上髙縄神従五位上」と所載されている古社⑫神名石表:明治二十九年八月四日於東京縣社髙縄神社文部兼外務大臣従二位勲一等侯爵西園寺公望謹書裏:明治二十八年五月立之氏子中西園寺公による神名石は均整のとれた端正な楷書である。320×46×36(㎝)明治29年8月23日76歳の作⑬寄附者名石表:「一金五拾円文部兼外務大臣従二位勲一号侯爵西園寺公望殿」大臣名等の小字は石文として大変珍しいものとされる。寄附者名石裏:「明治二十九年八月二十三日」⑬⑫きょうせいちゅうこうぎたいきょうせんぷしょうしんとうたいきょうあさみそざんしゅうしゅう【位置】松山市から196号線を北に14㎞で府中交差点を右折して約100mで右側に保育園があり直進後、最初の交差点を左折して若宮橋を渡り右折。河野小学校の手前を左折し約200mで鳥居が見える。右折して正面に神社が見える。高縄神社諸用日記(三輪田常貞自記)(愛媛大学図書館所蔵)