風早まちづくりネットワーク 風早まちづくりネットワーク

風早紀行

一茶の道

 小林一茶が初めて伊予路を訪れ、風早の地(北条地域)に足を踏み入れたのは、寛政7(1795)年でした。当時、小林一茶が歩いた道を、名所・句碑などを巡りながら歩いてみてはどうでしょうか?

一茶の風早来遊と俳諧文化の隆盛

 関ヶ原の戦いの後、伊予国は加藤嘉明と藤堂高虎によって分割統治され、風早郡も二分されたが、1635年の替地ですべてが松山藩領となり、松山15万石の1割を占める郷村という存在になりました。
 江戸時代に広まったとされる俳諧は、当時の風早地方でも盛んに行われました。北条に100基以上ある句碑や、各地の寺社に残る奉納俳額の数々からも、いかに北条が俳諧と縁の深い地域であるかがわかります。近世以降、庄屋や商家の主たちを中心に、遠来の文人や俳諧師を温かく迎え入れる土壌が、庶民の間に俳文学が浸透する要因であったとも考えられます。
 江戸時代の代表的俳人・小林一茶も、風早の地を訪れた一人。1795年、旧友との再会のため最明寺までやってきたものの、彼はすでに亡く、寺からは一夜の宿さえ断られてしまいます。幸い近くの庄屋髙橋五井(俳号)邸に迎えられ、翌日は、八反地の門田兎文(俳号)宅で歓待を受け、手厚いもてなしを喜ぶ句をいくつか残しています。この一茶来遊を機に風早の俳壇はさらに盛り上がりを見せ、後の正岡子規や高浜虚子、柳原極堂など多くの俳人輩出につながっていきました。
 一茶が歩いた風早地方の下難波から最明寺までの約4.5キロメートルのルートは「一茶の道」として整備され、自然と文学を楽しめる散策コースとなっています。

三輪田米山紀行

 豪快で奔放自在な書風から、近代書の先駆と評される三輪田米山。神職仲間や、親交のあった氏子の依頼で、愛媛県中予一帯の神社や、旧家の石碑・祭幟・襖・扇・掛軸等に数多く揮毫しています。ここ風早の地にも米山の足跡は今なお、息づいています。郷土色あふれる当地方の五社を巡ってみましょう。

三輪田米山 ≪みわだ べいざん≫

 本名は常貞。1821(文政4)年、伊予松山の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男として生まれ、1908(明治41)年に没した、伊予の神主です。米山は、明治維新をはさんだ激動の時代に生きながら、王義之(おうぎし)をはじめとする書の古典に深く学び、独自の書風を形成しました。 平成19年2月、「米山顕彰会」が結成され、米山作品の鑑賞・普及また、作品の保存等に力を注いでいます。
 写真は、三輪田米山 肖像(日尾八幡神社所蔵)。

風早八十八ヶ所巡り

 弘法大師が開いた四国八十八ヶ所を巡拝できない人々のため、明治初年ころに猿川村長老たちが約20年の歳月をかけ、風早全域の薬師堂・地蔵堂などを結んでつくったと言われています。
 その後、長い年月の間に忘れ去られようとしていた風早八十八ヶ所は、浅海に残っていた76番・77番の石標が昭和49年に話題になり、復活を目指し北条市文化財専門委員会が調査を始めました。昭和50年に調査が完了し、多くの人々が参拝できるようになりました。

風早ふるさとめぐり88スタンプラリーアプリ

北条地域に点在する88のお堂を結ぶ「風早八十八ヶ所」をスムーズに回れるアプリが無料でダウンロードできます!
各札所までナビゲーション機能を使って次の目的地までの道順、時間、距離が、表示され音声案内もあります!!
位置情報をONにしておくと迷わずに行けますよ。
北条地域の見所も満載です!
ぜひダウンロードして、北条を巡ってください。

名所・名跡・風景

庄・薬師堂

 北条地域には河野氏ゆかりのお寺や、見る人を感動させる夕陽スポットなど、名所・風景が溢れています。ぜひ巡ってみてください。

木造菩薩立像
(国指定重要文化財・S40年5月29日指定)

木心乾菩薩立像
(国指定重要文化財・S40年5月29日指定)

國津比古命神社
主祭神:天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊、宇摩志麻治命、物部阿佐利命、誉田別命

 当神社は応神天皇の御代(西暦270年〜310年)に風早国造に任命された物部阿佐利命がその祖神である天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊及びその子宇摩志麻治命を奉斎したことに始まります。饒速日尊は天照皇大神の御子天忍穂耳命の長子で、大和に天降りそこを中心とした国造りに着手し、天孫の天下経営の大業に協力し、その子宇摩志麻治命も父命の志を継ぎ地方の開発に偉大な功績を残しました。向かい合って鎮座する櫛玉比賣命神社とともに『延喜式神名帳』にその名を残す由緒深い神社です。

櫛玉比賣命神社
主祭神:天道姫命、御炊屋姫命

 当神社は物部阿佐利命が天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊の妃姫である天道姫命及び御炊屋姫命を奉斎したことに始まります。國津比古命神社とともに『延喜式神名帳』に記載されています。
 尚、神社前方の小山は本殿裏にまで至る前方後円墳の一部です。

善応寺

 善応寺は、河野通盛が本拠を道後湯築城に移す時、自分が住んでいた土居館を京都東福寺に模して創建したと言われています。
 また、善応寺には愛媛県指定有形文化財である『金銅誕生佛立像』や『木造釈迦如来及び両脇侍座像』、『善応寺文書 5巻』、松山市指定有形文化財の『木造達磨大師座像』や『木造大権修利菩薩倚像』などがあり、深い歴史を感じることができます。

高縄山の千手杉 ‐松山市指定天然記念物‐

 樹高:28.0m、胸高幹周:540cm、樹齢300年以上

 千手杉は、主幹の下部から上部までに多数の大枝がでており、上部を除いたその大多数は主幹に寄り沿うように直立状または斜め上に伸びており、スギの巨樹では稀な樹形をしていて貴重な存在です。